2012年5月8日火曜日

ありのままが俳句なのか?

質問
 公園のベンチに小さな鍵が置いてありました。四十雀の声がしていたので、
「四十雀ベンチの上の小さき鍵」と作ったのですが、ありのままのことを、そのとおりに詠めば俳句になるのでしょうか。

 公園のベンチの上に小さな鍵を見つけたことで、ハッとしたことがわかります。このいつでも、物事にハッとする心、「感動する」といってもよいのですが、その柔軟な心をもち続けることが、俳句の基本になります。この句は「四十雀」でも一応俳句になっているのですが、できれば、ここでもう一歩踏み込んでみてください。

 それは、その鍵を見つけた時、自分は何を感じたのかを自分で反芻してみるのです。たとえば、誰かが忘れたのだろうか、それとも子供のいたずらだろうか、ベンチの上の鍵は置かれたままで、春という時間は過ぎ去ってしまうのだろうか、でも何か幸福な予感がする…等々。それによって、季語が逆に決まってきます。「四十雀」では、まだその想いが伝わってこないのです。

 その時に感じた、その時の想いを自分の中で把握し、それを忠実に再現して俳句を作ろうとすると、類想感などというものは、本来あり得ないはずなのです。自分が感じるのは、その一瞬、一瞬の、一期一会の独自なものであるはずですから。ただ、ありのままを詠めと言われても、自分で、すでに、その情景から何かを切り取って俳句に作っているはずです。どこを切り取るのか、それは常に自分の感動とセットなのです。

ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに        森 澄雄
                   
 私は、かつて、この句のような情景を見たいと、牡丹園に何度も足を運びましたが、牡丹の花が百も揃って揺れることなど、現実にはあり得ないことでした。牡丹の幹と言うのは、結構堅いもので、その先の若い枝に花がつくのですが、同じ方向からの風に湯のようにやさしく揺れつづくということは、まずありえません。突風のような強い風だと、吹き殴られるようで、おだやかに揺れあうことなどないのです。

 この句は「湯」の題による題詠だったそうです。実際に森澄雄が、こんな光景を見て作ったわけではないのです。澄雄が、自分のイメージの中に描いた世界なのです。読者には、百の牡丹が、ゆるやかに、たおやかに咲き誇るさまが、「湯のやうに」によって、彷彿としてきます。まさしく、芭蕉の云う「虚に於いて、実を行う」句なのだと納得させられるのです。そのイメージは、現実の牡丹よりも、はるかに牡丹らしく感じられるのではないでしょうか。

 ありのままを、ありのままに詠もうとすることは、基本ですが、俳句もフィクションの世界をもつ詩であることを、どこか心に留めておいてください。それは、最初から絵空事のように現実離れをしていることではなく、現実感がありながら、現実を遙かに越えた、もっと広大な世界を内包しているということだと思います。自分の感動を再現しながら、俳句は、折々に自由に心を遊ばせることができる世界をもっているのです。

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