2012年5月21日月曜日

5月の受贈誌より(1)

感銘句より一部を抽かせていただきました。誠にありがとうございました。
(到着順で敬称は略させていただきました。)

     
狩     いくたびも逸るを怺へ巣立鳥       鷹羽 狩行
      一頭の駈け抜けてゆく落花かな      片山由美子
      初富士の白磁を太平洋の上        田口 紅子
 
百磴    梅の香と気付きしほどの雨が降る     雨宮きぬよ

秋草    家中に箱がたくさん鳥の恋        山口 昭男

若竹    寒月下われも笛吹童子かな        加古 宗也

ひろそ火  薔薇の芽や神にも赤き血のありぬ     木暮陶句郎

都市    義仲を育てし谷や雪煙          中西 夕紀

春塘    豆撒きて三尋の闇をてなづける      清水 和代

帆     草鉄砲たれに飛ばそか雲雀東風      浅井 民子

松の花   はばたきて大白鳥の仁王立ち       松尾 隆信
 
青瓢    雪原や影無き鳥の声過ぎる        中村  弘
      遷化の師乗る雲も無し冬満月       加藤  仁

陸     谷底の巌は割れて桜咲く         中村 和弘

       八田木枯先生
秋麗    生まれ変はられしか若き糸桜       藤田 直子

夕凪    鬨の声消して吹雪の関ヶ原        飯野 幸雄

大     春遠き坂の日向の蕗の薹         境野 大波
      雪吊や今宵は月の欠けるてふ       遠藤千鶴羽

紫     みな同じ貌ではないと泣く公魚      山﨑 十生

星雲    補陀落の沖に溢るる冬銀河        鳥井 保和

握手    ゴンドラや我が青春の標旗なり      磯貝碧蹄館
      穀象や秘すれば花の教へあり       朝吹 英和
      この国の震へし春を踏み違ふ       海野 弘子

弦     電灯の紐ながく引く鶴来るころ      遠山 陽子

吟遊    書類ただ上下している空虚な塔      夏石 番矢
      弓に矢をつがえよ永遠を射ぬかん     鎌倉 佐弓

ランブル  春愁のなかに浮くもの沈むもの      上田日差子

篠     歩く人皆春光の塵となり         岡田 史乃
      良縁を願ふ母の手雛飾る         辻村 麻乃

宇宙    神鏡のごとき一湾初御空         島村  正
      桜桃忌昨日の吾にグッド・バイ      八木 裕子

嘉祥    方丈に鈴の音したる涅槃かな       石嶌  岳   

谺     草青むキリストは立ち釈迦坐り      山本 一歩

椰子通信  亡きひとの家路は芹の水に沿ひ      友岡 子郷
      海見たき日は海を見に龍の玉       中岡 毅雄

や     いつかのセーター綾取りの川となり    麻里伊
      
かつしか  三角の鉄砲狭間風光る          吉岡 桂六

OPUS  村中を知つてゐるなり麦を踏む      和田耕三郎
      遠景にずつと塔ある遅日かな       坂本  登
      毛糸玉ころげてここも銀河系       しなだしん
 
なんぢや  手を繋ぐひとと一緒に冬に入る      井関 雅吉
      春節の街の夕ぐれ茶葉ひらく       鈴木 不意
      獅子舞に惡しき頭を噛ませをり      土岐 光一

静かな場所 使はれぬもの裏庭に枇杷の花       対中いずみ
      梅漬けて貴女は去年より若し       満田 春日

唐変木   銀色の月を大きく秋草図         菊田 一平

麻     残る鴨見ていてひとり残さるる      嶋田 麻紀
      剪定の枝をその樹に束ね置く       松浦 敬親

豆の木   
      半袖になりはじめたる心かな       こしのゆみこ
雑巾で行こう隅々まで如月         遠藤  治
待針をマチコと呼ぶも供養なる       太田うさぎ
空瓶をくぐつてきたる冬日かな       齋藤朝比古
ふくろふの眼うごかず闇うごく       吉田 悦花   

惜春    新涼や蔵ある家もなき家も         高田風人子
      枯木径行くや何かに縋りたく        福神 規子

       


2012年5月16日水曜日

今月の受贈句集から

5月の句集より(1)

『大森海岸』 大牧広    角川書店刊

老人と仲良しの山眠りけり
冷奴崩れ崩れし世の隅に
原発の壊れて粛々梅雨に入る
北窓をときどきひらく処世術
これよりは生き競べなり春夕焼

自らを老人と諧謔味あふれる俳句に詠みながら、その芯には、自己と他者を見つめる真摯なまなざしがある。「港」主宰で、俳人九条の会の発起人のひとりでもある氏のメッセージ性は強い。自分と今の社会の関わりを問われる思いがした。

『白雁』  岩淵喜代子  角川書店刊

箱庭と空を同じくしてゐたり
盆踊り人に生まれて手を叩く
着水の雁一羽づつ闇になる
綾取りのあとは何して生きめやも
花ミモザ地上の船は錆こぼす

一頁に一句と二句組が混じるレイアウトの斬新さに目を見張る。「等身大の自分を後追いするのではなく、今の自分を抜け出すための句集作り」のあとがきに詩情によって浮遊するかのような世界を醸しつつ、また地上へと還ってくる感覚が諾える。「ににん」代表。

『句のある風景』 東京四季出版刊

郵袋の賀状を島へ放り投ぐ      鳥井保和
引く波を力に入れて土用浪       同
命中の鴨の羽毛のおくれ落つ      同
吃水に昆布躍らせ船戻る        同
海へ石投げては岬を耕せり       同
 
20人のアンソロジーによる句集である。鳥井保和氏は、山口誓子門で「星雲」主宰。その躍動感あふれる写生句には、他の追随を許さない雄々しさが漲っている。

『星の呼吸』  佐藤郁良  ふらんす堂刊

砂嘴ひとつ海より生るる初景色
大干潟一歩一歩を消しに行く
祭髪父を離れて坐りけり
偏愛の果てのホワイトアスパラガス
風景のやうに茶を飲む生身魂

坦々として詩的である。どこにでもある風景が氏によって切りとられた瞬間から、独自性を帯びる不思議な言語感覚がある。これからの俳句が詩的であるためには、比喩によらなければ表現できなくなっていくのだろうか。ふとそんなことを思う。「銀花」副編集長。
俳人協会新人賞受賞後の第二句集。

『永遠が咲いて』現代俳句協会コレクション1 鳴戸奈菜  現代俳句協会刊

玉手箱そろそろ開けよう耕衣の忌
埒外の人ゆえ春はおままごと
気が遠くなるたんぽぽのたんぽぽで
秋思あるいは愁死それが何か
秋の蛇おのれの始末これからは

俳句がフィクションで詩であることが、端的に表れている。若い世代はおさまりかえった枯淡のかたちを目指すのに、氏のもつ言葉のエネルギーは逆に衰えることを知らない。
同人誌「らん」発行人。50句ずつの多作による作品群には、俳句同士に微妙な響き合いがあり、一句独立してではなく、そのかたまりとして味わいたいと思った。

『かもめ』  山中多美子  本阿弥書店刊

てふてふを見しは瀑布の音のなか
行く舟の小さくなりぬ葭屏風
かたはらを鶏走りたる落葉籠
西行谷花びらほどの雪がふり
観音の指ひらかれて冬の蝶

言葉に静謐な気品があるとはこういうことだろう。古典にも精通し、一句の世界はあくまで端正で美しい。宇佐美魚目に師事し、現在は「晨」「琉」「円座」同人。『かもめ』の題に、私はチェホフを意識したが、氏の句風には揺らぎのない日本画の透徹した美が感じられる。第二句集。

2012年5月8日火曜日

ありのままが俳句なのか?

質問
 公園のベンチに小さな鍵が置いてありました。四十雀の声がしていたので、
「四十雀ベンチの上の小さき鍵」と作ったのですが、ありのままのことを、そのとおりに詠めば俳句になるのでしょうか。

 公園のベンチの上に小さな鍵を見つけたことで、ハッとしたことがわかります。このいつでも、物事にハッとする心、「感動する」といってもよいのですが、その柔軟な心をもち続けることが、俳句の基本になります。この句は「四十雀」でも一応俳句になっているのですが、できれば、ここでもう一歩踏み込んでみてください。

 それは、その鍵を見つけた時、自分は何を感じたのかを自分で反芻してみるのです。たとえば、誰かが忘れたのだろうか、それとも子供のいたずらだろうか、ベンチの上の鍵は置かれたままで、春という時間は過ぎ去ってしまうのだろうか、でも何か幸福な予感がする…等々。それによって、季語が逆に決まってきます。「四十雀」では、まだその想いが伝わってこないのです。

 その時に感じた、その時の想いを自分の中で把握し、それを忠実に再現して俳句を作ろうとすると、類想感などというものは、本来あり得ないはずなのです。自分が感じるのは、その一瞬、一瞬の、一期一会の独自なものであるはずですから。ただ、ありのままを詠めと言われても、自分で、すでに、その情景から何かを切り取って俳句に作っているはずです。どこを切り取るのか、それは常に自分の感動とセットなのです。

ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに        森 澄雄
                   
 私は、かつて、この句のような情景を見たいと、牡丹園に何度も足を運びましたが、牡丹の花が百も揃って揺れることなど、現実にはあり得ないことでした。牡丹の幹と言うのは、結構堅いもので、その先の若い枝に花がつくのですが、同じ方向からの風に湯のようにやさしく揺れつづくということは、まずありえません。突風のような強い風だと、吹き殴られるようで、おだやかに揺れあうことなどないのです。

 この句は「湯」の題による題詠だったそうです。実際に森澄雄が、こんな光景を見て作ったわけではないのです。澄雄が、自分のイメージの中に描いた世界なのです。読者には、百の牡丹が、ゆるやかに、たおやかに咲き誇るさまが、「湯のやうに」によって、彷彿としてきます。まさしく、芭蕉の云う「虚に於いて、実を行う」句なのだと納得させられるのです。そのイメージは、現実の牡丹よりも、はるかに牡丹らしく感じられるのではないでしょうか。

 ありのままを、ありのままに詠もうとすることは、基本ですが、俳句もフィクションの世界をもつ詩であることを、どこか心に留めておいてください。それは、最初から絵空事のように現実離れをしていることではなく、現実感がありながら、現実を遙かに越えた、もっと広大な世界を内包しているということだと思います。自分の感動を再現しながら、俳句は、折々に自由に心を遊ばせることができる世界をもっているのです。

2012年5月5日土曜日

季語の本意について

質問
神社の境内に、桜が散っていました。冬の間はひっそりと静かなのに、人出があって、楽しい感じがしました。桜散るで、楽しい句を作りたいのですがどうしたらよいでしょうか。

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実際の情景から自分がどう感じたかを大切にすることが、俳句を作る基本になりますが、
それぞれの季語にはおのずと持っている、意味のようなものがあります。それを本意といったりします。俳句で、「花」といえば「桜」を指すことが決まっています。そして「桜」の傍題と言われる季語を「季寄せ」で見ると、たくさんのいい方があるのに気付くでしょう。たとえば「桜散る」をあらわす季語には、「花散る」「落花」「飛花」「花吹雪」「桜吹雪」などがあります。「桜散る」も「ちるさくら」などとも表現されます。

ちるさくら海あをければ海へちる         高屋窓秋

この句は、紺碧の海に散っていく桜の花びらが鮮やかに情景として浮かびますが、「ちるさくら」と言う季語には、今の時代の私たちには、太平洋戦争で亡くなった人たちを連想させるものがあるのです。もともと「桜」は日本で、軍国主義と結びついていたわけではありません。大貫恵美子著『ねじ曲げられた桜』岩波書店刊は、神代の時代からの桜の象徴的な意味を追った名著ですが、古代日本の「咲く花」の生の祝祭から、やがて「ちる桜」が無常感と結びつき、もののあはれを感じるようになる平安時代、さらに時代がくだり、能楽における「風姿花伝」や、歌舞伎の美、女性美や稚児の美など、仮想の世界の美意識と桜は結びつき、やがて為政者によって戦争で国家のために「花と散って死ぬ」ことを潔しとする特攻隊の思想と結びつけられていきました。桜ひとつとっても、時代によってどれだけ内包する意味が変わっていったかがよくわかります。「散る桜」には季語の本意に「死のイメージ」があるので、「散る桜」で楽しい句を作るというのは、結構難しい作業になるかもしれません。

季語で「桜」というときは、俳句によっては、植物としての花をさしているだけではないことが少しわかっていただけたでしょうか。季語が俳句にとって一つの共通語のように、認識されるのは、その背景を日本人なら共有しているはずという暗黙の了解があるからです。しかし、実際には、日本列島は長いので、季節感もずれがありますし、南国の桜と北国の桜では咲く時期も違うし、人々の想いも違うかもしれません。日本の「桜」と外国の「チェリー・ブロッサム」ではそこへ託す思いもまた違うかもしれません。ただ、季語を使う俳句には、季語のもつ象徴性に、作者の想いを託すことができるメリットがあると思います。季語を覚えると同時に、季語のもつ本意を知ることは、俳句への深い理解につながるかもしれません。

2012年5月4日金曜日

季語は一句にひとつ?

質問
 俳句を作ったら、一句に季語が二つあると言われました。季語は一句にひとつなのでしょうか?

俳句では一句に季語はひとつが原則とされていますが、規則には例外がつきものです。

    目には青葉山ほととぎす初鰹       山口素堂

 5月の風物のみずみずしさをよく表現しているこの句を聞いたことがあると思います。この句はまた「青葉」「ほととぎす」「初鰹」と三つの季語がある「季重なり」の句としても有名です。素堂は江戸時代の俳人ですから、江戸の人達が喜ぶ初夏のものを並べたのです。「鰹=かつを」は「勝」に通じると、武士の時代の江戸では縁起のよい食べ物だったそうです。ただ、初鰹はなかなか高価で、当時の庶民の口に入るものでは、なかったようですが、初物を喜ぶ、江戸の人々の心意気が感じられる一句です。

    分け入っても分け入っても青い山     種田山頭火

 一方この句には、季語というものがありません。「無季俳句」と呼ばれます。種田山頭火(1882~1940)は、大地主の長男に生まれたのに、一家離散や自殺未遂の果てに、熊本の曹洞宗報恩寺で出家得度し、行乞放浪の生活を送り、「5・7・5」という定型のリズムを守らず、「自由律」という一行の詩のような俳句をたくさん残しました。しかし、この句の「青い山」には、草の丈をかき分け、かき分け進む感じが良く出ていると思います。山頭火はそうやって、西日本中を放浪し、俳句を詠みつづけました。季語はないのに、この句には、夏という季節感が漲っています。

 最初に俳句を作るには、「5・7・5」のリズムの定型を守り、季語をひとつだけ入れることをお勧めします。それが基本となります。季語を覚えていく中で、季節感と自分が言いたいことの関わり、あるいは、季節感から受けた自分の想いを整理してゆくことができるようになると思います。必要なのは、季節感を感じるこころです。失敗を恐れずに、ともかく自由にたくさん俳句を作ってみてください。

 みなさんもコメント欄に俳句に関する質問をどうぞお寄せください。

2012年5月1日火曜日

同人誌の意味


結社誌は、主宰の選が受けられるので、俳句の発表の場としては、多くを学べる場所だと思います。ただ、紙数に限りがあるので、自分が書きたい文章を掲載してくれる機会は、ほぼありません。編集の方針で、内容が固定化していることもその一因です。
 私がこのたび、季刊の同人誌として「晶」を立ち上げることにしたのは、執筆の枠をふやして、多角的に草田男研究をしていかなければならないと思うからです。それだけ、草田男先生へのアプローチは一面的ではありません。また、俳句を離れて、広い視点から、自然と人との関わりを書いてくださることも期待しています。さらに、草田男先生が目指した、自己に忠実な、生きた証としての俳句を作句信条に、句会の指導も出来る限りしていくことで、作品発表の自選力をつけていってほしいと願っています。
「晶」に参加される方はすべて、同人とし、平等の立場で自由に研鑽してほしいと思います。「晶」のほかにも俳誌に所属されていても、何らさしつかえありません。

「晶」創刊に際して


 このたび季刊同人誌「晶」をたちあげる運びとなりました。私のプロフィールをまじえながら、「晶」への想いを書いてみたいと思います。
私は、母の手ほどきで二十歳のころより俳句をはじめました。その頃、たまたま近くのカルチャー教室で芭蕉の講座があり、その講師が香西照雄先生でした。若かった私を、香西照雄師は、母には「自分が育ててみたい」とおっしゃったそうで、それから香西先生の実作の別のカルチャー教室に通うことになりました。そこではまず、高野素十の「初鴉」を読むように言われ、客観写生を叩きこまれました。句作でスランプになると、自分が立ち返るコンパスの芯のようなものは、今でもこの写生の眼です。
香西先生のご縁で「萬緑」という中村草田男創刊の俳誌に依って二十五年余りを過ごしました。私は草田男先生の孫弟子ということになります。草田男先生の亡くなられた、昭和五十八年八月が初投句で、草田男選に二句掲載され、その後、萬緑新人賞を受賞(一九八九年)、その翌年同人となり、萬緑賞を受賞(二〇〇四年)の翌年、退会し、「麟」と言う同人誌で草田男研究をはじめました。さらに「ににん」という同人誌でその続きとしての草田男第一句集の『長子』の研究を続けて、すでに七年がたちました。
孫弟子で、生前の草田男先生に一度もまみえたことのない私が、なぜ草田男研究をしているのかといえば、それは、香西先生に「師の研究をしなければ弟子とは言えない」と言われた教えが深く残っているからです。いまだに草田男先生の奥深さに圧倒されるばかりで、まだ第一句集しか終わっていません。しかし、自分でたちあげた「晶」で、この研究の続きをしようと決意しました。